※本記事にはアフィリエイト広告(PR)を含みます。店舗の飲食代はすべて編集部の自費です。
ひとり、十六万五千円である。
金額を聞いたとき、私は咄嗟に、それが何に相当するかを考えた。冷蔵庫なら、そこそこ良いのが買える。軽自動車の車検なら、二回通せる。そういう換算を始めてしまう時点で、もう負けているのだと思う。
高い食事、というものには、それなりに慣れているつもりでいた。だが、「高い」という言葉には天井があるらしい。その天井を、この店は頭ひとつ突き抜けていた。
道中、車内の予想大会
三国へ向かう車のなかは、妙に賑やかだった。
「十六万五千円って、何が出てくるんだろうな」
誰かがそう言ったのが始まりで、あとはもう止まらなかった。蟹が丸ごと一杯なのか、二杯なのか。器はどんなものか。部屋から海は見えるのか。床の間には何が掛かっているのか。見たこともない料理と、見たこともないしつらえを、大の大人が四方から言い当てようとする。当たったところで賞品が出るわけでもないのに、皆、妙に真剣である。
「一品あたり、いくらになる計算だ」と割り算を始める者がいて、「そういうことを考えるから楽しめないんだ」とたしなめる者がいる。たしなめた本人が、しばらくすると同じ割り算をしている。
そのうち、誰かがぽつりと言った。
「今日の蟹を食べてしまったら、明日から、いつもの蟹で何も感じなくなるんじゃないか」
車内が、一瞬静かになった。
笑い話のつもりだったのだろうが、誰も笑わなかった。心当たりがあるのである。一度知ってしまった味は、知らなかった頃には戻せない。冬が来るたびに楽しみにしてきた、あの見慣れた蟹たちを、私たちは今日、裏切りに行くのかもしれない。
しかし、車はもう高速を降りていた。予約は取ってある。勘定の額も知っている。いまさら「やっぱり、いつもの店で」と言い出す者は、ひとりもいなかった。
もう、後戻りはできないのである。
箸を持つ手が、少し重い
席に着くと、誰も値段の話をしなかった。
しないのではない。できないのである。全員が、同じ数字を胸のうちで転がしている。それが分かるから、かえって口に出せない。大人というのは、こういうときだけ妙に行儀がいい。
蟹の脚を一本、口に運ぶ。美味しい。美味しいのだが、美味しいと思った次の瞬間に、頭のどこかで電卓が鳴る。この一本で、いったい幾らなのか。私はあの晩ほど、蟹を真剣に食べたことはない。殻に残った身を、これほど丁寧にほじったこともない。母が見たら、「よそでもそのくらい綺麗に食べなさい」と言ったに違いない。
途中で、私は腹を括った。これは食事ではない。小旅行に来たのだ。旅なら、多少の散財は付きものである。そう思い直した途端、ようやく肩の力が抜けて、蟹が蟹の味になった。

窮地をくぐった仲間
一緒に卓を囲んだのは、経営者仲間のなかでも、とりわけ気心の知れた方々だった。
不思議なもので、同じ緊張を分け合っていると、人は仲良くなる。吊り橋を一緒に渡ると恋が芽生えるという話があるが、十六万五千円の蟹にも、似たような作用があるらしい。
店を出る頃には、私たちは、何かひとつの窮地を共に乗り越えてきた戦友のような顔をしていた。実際には、蟹を食べただけである。

一度でいい。だが、忘れられない
正直に書いておく。この店は、一献録の記録のなかで、「当面、もう一度行く理由はない」と判断した数少ない一軒である。
誤解のないように言えば、店に落ち度があったわけではない。ただ、十六万五千円は、日常の会食の選択肢に入る数字ではない、というだけのことだ。
それなのに、困ったことがある。
蟹の季節が来るたびに、この店を思い出すのである。スーパーの鮮魚売り場に、タグの付いた蟹が並びはじめる。ニュースが解禁を告げる。そのたびに、あの晩の、妙に行儀のいい沈黙と、電卓の音が蘇る。
二度と行かないと決めた店に、毎年一度、思い出のなかでだけ通っている。十六万五千円には、どうやらそこまで含まれていたらしい。
誘うときの作法

この価格の席に、誰でも誘えるわけではない。
声をかけたのは、断られても何ひとつ関係が変わらない相手だけだった。最初の一言で金額をはっきり伝え、「難しければ遠慮なく」と、断る側の逃げ道を誘う側が先に用意しておく。
これを怠ると、どれほど良い店でも、誘われた側には重荷しか残らない。十六万五千円を背負わせたうえに、気まずさまで背負わせてはいけない。
行くなら、旅として
全7室の小さな宿で、蟹の季節は予約が取りにくい。行くと決めたなら、秋のうちに日取りを押さえておきたい。東尋坊にほど近い三国温泉の料理旅館で、北陸新幹線の芦原温泉駅からはタクシーで30分ほど。私たちは食事だけで帰ってきたが、帰りの車のなかで、誰からともなく「泊まればよかった」という声が出た。十六万五千円を払って、日帰りである。温泉宿の湯にも浸からず、日本海の朝も見ずに帰ったと思うと、それはそれで惜しいことをした気がしてくる。
店舗情報
| 店名 | 望洋楼(ぼうようろう) |
| エリア | 福井県坂井市三国町(三国温泉・東尋坊近く) |
| 業態 | 料理旅館(明治創業/全7室) |
| 価格(1名・編集部の実勘定) | 165,000円 |
| 訪問回数 | 1回 |
| 再訪 | 当面なし(ただし毎年思い出す) |
| アクセス | 北陸新幹線 芦原温泉駅からタクシー約30分 |
| 公式サイト | https://www.bouyourou.jp/ |
※価格は編集部が実際に支払った勘定です。時期・コースにより変動します。最新情報は公式サイトでご確認ください。
宿の手配
これから行く方には、泊まりで組むことをすすめたい。食事だけでも十分に記憶に残る店だが、蟹のあとに湯と布団が待っているなら、あの緊張もいくらか和らぐはずである。私は、次があるならそうする。ないのだけれど。

一献録で紹介している16店舗を、価格帯と場面別にまとめた一覧はこちら。
一献録編集部
蟹の季節に、北陸で会食の席を設ける方へ。
この夜のコースの全容を写真で順に残し、あわせて蟹の席の誘い方、帰り道、二次会の始末まで、編集部の実録から段取りをまとめました。

コメント